如露亦如電 応作如是観(にょろやくにょでん おうさにょぜかん)大内義隆の辞世の句です。
書くことがない。何かを書こうと考えていたら、日付をまたいでしまった・・・
仕事を終えて、夕食を食べて・・・ メールを見て・・・
いつものように過ごして・・・ パソコンの前に座って、書こうとするが・・・このあいだ行った観光地のこと、食べた料理のこと・・・・うーん、時間がかかりそう・・・
読んだ本・・・まだ、消化できてないし・・・
戦国武将の辞世の句を集めた本もみてたよね・・・・
わたしの好きな 辞世の句に
討つ人も 討たるる人も 諸共(もろとも)に
如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさにょぜかん)
という句があります。
室町時代後期に山口(周防国、長門国)を中心に権勢を誇った大内義隆の辞世の句です。応仁の乱で京都が荒廃したこともあり、細川家とともに当時の日本では、最大を競うような勢力の当主でした。
栄華を誇った彼でしたが、山陰の雄 尼子氏との月山富田城での戦いに敗れ、また、尼子氏の追撃により、かわいがっていた養嗣子の晴持(土佐一条家より養子)を失い、、戦や政治に関心を失います(失ったとされています)。
その後、配下で武断派であった陶隆房(のちの晴賢)に裏切られ、山口市から北へ逃れ、長門市深川湯本の大寧寺(たいねいじ)に立て籠もって、抵抗をするも多勢に無勢で自刃をします(享年45才)。
その時の辞世の句とされています。
わたしを討つ陶晴賢も 討たれるわたしも どちらも人生というのは露や雷の光のような儚いものだ わたしはこのあるがままの真実を受け入れる
というような意味だと思います。
後半の 如露亦如電 応作如是観 という部分は 金剛般若経の一節です。
口ずさんだ時のリズムが流れるようでありながら、最後の如是観という言葉でピシャッと締まる感じがします。 意味も音も好きな句です。
大内義隆を討ち大内家の実権を握った陶晴賢ですが、その4年後、厳島の戦いで、毛利元就の策略にはまり、自刃して果てました(享年35才)。
毛利元就の嫡男 毛利隆元 そして、三男 小早川隆景の「隆」の字は、義隆より偏諱(へんき)されたものです。